■国会事務所
東京都千代田区永田町2-2-1
衆議院第一議員会館220号室


■神戸事務所
兵庫県神戸市中央区北長狭通
4-1-12 鯉川ビル7階


■青雲の志

 思えば、幼い頃から政治に興味を持っていた。少年時代、焼け跡で行われた総選挙のとある演説会で最前列を陣取って、「子供、お前もう帰れ!」と追い払われたエピソードもある。
 甲南高校時代は弁論部に所属し、全国大会での優勝も成し遂げた。現在の熱弁の原点である。その後も政治への熱い思いは途絶えず、甲南大学経済学部を卒業後は、単身アメリカへ留学し、スタンフォード大学大学院で政治学修士を取得した。
 1957年、神戸港から貨物船で30日かけて渡米。現地では、必要な学費も生活費も自分で稼ぎ出さなければならない日々だった。約1000日間の滞在中、皿洗いやハウスボーイ、芝刈りやベビーシッターまでこなし、最終的にスタンフォード大学院助手という頭脳労働にたどり着くまで、実に40種類の仕事を転々としながら学業に食らいつく毎日だった。当時はまだ人種差別も激しく、辛酸をなめることも多かった。そういう苦労を支えたものは、いつの日か政治家になるという夢と、それをなんとしても達成するという強い意志だった。
 このとき得た自信と達成感は、今日の政治家としての信念となって生きている。



■政治家への道

 政治への情熱を持ち続けた学生時代ではあったものの、俗に言う地盤・看板・カバンなど何も持たない青年が政治家に至る道は、平坦ではなかった。アメリカから帰国してすぐ、当時政界の大物だった三木武夫氏が南カルフォルニア大学卒業というのを聞き、スタンフォード大学を出た自分に何らかの共感を覚えてくれるのではないかと一縷の望みを胸に東京の三木邸を訪ねてみたが、結果は残念ながら門前払いだった。
 しかし、そんなことで曲がる信念ではない。当時経済界で著名だった郷司浩平氏の知遇を得たことが縁で、日本生産性本部の職員となり、まずは国際公務員となる道を開拓した。国際機関で働くうち親しくなった韓国政府の経企庁の人が、政治家への夢を果たすチャンスを作ってくれた。この人がたまたま竹下登氏と知り合いで、とある国際会議の場で「優秀な政治家志望の青年がいる」と猛烈に竹下氏に売り込んでくれた。結果、竹下氏は当時自民党佐藤派の重鎮だった橋本登美三郎氏を引き合わせてくれた。やっとの事で政治家と知り合うことができ、このチャンスを無駄にするまいと、橋本先生の前で政治への情熱を思うままに語った。「兵庫1区で立ちたい」!「それならやってみろ」。なんと橋本先生は、その場で自分の衆議院選挙出馬を認めてくれた。29歳の時だった。



■ダッカハイジャック事件

 1977年9月28日、パリ発東京行き日航機が日本赤軍にハイジャックされ、バングラデッシュのダッカ空港に強制着陸させられた。当時運輸政務次官だった私は、福田総理の命を受け、人質解放・事件解決のため政府派遣団団長として現地に飛んだ。この体験は政治家として、人間として、一人の男として、とても貴重であったと思う。20年以上の歳月を経た今思い出しても冷や汗を感じるほどの、孤独で厳しい決断の連続だった。
 当時、バングラデッシュはパキスタンから独立したばかりの新興国で、自国の主権と国家の対面にかけても流血の惨事は避けたいという思惑をもっていた。日本政府の基本方針は「ダッカでの人質全員解放」で、派遣団も当然その手順を練り上げて持っていった。ところが私達がダッカについたとき、現地の司令官はすでに「部分釈放」の線で犯人達と交渉を進めていた。部分釈放を認めてしまえば、機内に残る82人の人質をどうやって救えばよいのか・・・。
 緊迫した状況の中で私の苦しみは、なんとかわが身と人質全員とを交換できないかという事であった。現地司令官にも交渉を頼み、また実行犯のリーダー・奥平純三にも「オレが入る、人質を出してやってくれ」と直談判もした。同時に「自分が入れば、まず殺されるだろう」という不安を正直言って振り払う事ができなかった。人質との交換は犯人側の「ノー」で実現しなかったが、まさに死線をさまようギリギリの場面であった。



■初入閣、国務大臣・国土庁長官

 平成元年8月に発足した海部内閣では初入閣を果たし、国務大臣・国土庁長官に就任した。
 バブルの頂点だった当時の土地問題に取り組み、土地政策の憲法とも言うべき「土地基本法を成立させた。一方で、阪神淡路大震災の被災地から選出いただいている自分の初入閣が国土庁長官であったことには宿命的なものを感じる。なぜなら、災害から国民を守り、健全な国土づくりを進めるのが国土庁長官であるからだ。当時米国で発生したサンフランシスコ地震の調査に政府団を派遣したり、東海及び南関東地域の大規模な地震を想定した総合防災訓練を実施するなど、防災には尽力してきた自負はある。
 しかしながら、平成7年に発生した阪神淡路大震災は当時、予測するすべもない出来事であった。もし、自分が震災当時に国土庁長官であったなら、もっと被災地の速やかな復旧が行われたかもしれない・・そう残念に思う事もある。しかし、この時得た閣僚としての経験は、新しい時代を担うべき新しい政党が政権を奪取したその日には必ずや生かされるものと確信している。



■政治改革〜自民党離党

 自民党はもはや国民の期待に応えられない――。常に自民党内で政治改革急進派の先頭に立ってきた私は、1993年6月、わずか36名の同士とともに自民党を去る決意を固め、改革断行ののろしを上げた。 政治改革守旧派政権であった宮沢内閣の不信任案に自ら賛成し、新生党を旗揚げした。
 当時を思うと、大きな客船から小さな筏に乗り換えるような気持ちだったが、「党に忠誠を尽くすより、国民に忠誠を尽くそう」という気持ちに駆り立てられた。直後に行われた総選挙で新生党は一気に躍進し、非自民の細川内閣が誕生するまでの流れは大変ドラマチックなものだった。だからそのときの我々の政治的行動は、十分に国民の評価を得たものであったと確信している。
 細川内閣では、政治改革特別委員長となり、羽田内閣では自治大臣として小選挙区の区割りを完成させ、一貫して政治改革に力を尽くしてきた。私とともに自民党を離党した議員のうち、今も変節なくこの信念を貫き通しているのは岡田幹事長などわずかに数名のみである。
 現在、残念ながら自民党は再び政権党の座にあるが、小選挙区の導入で二大政党制への潮流の最初のスタートは既に切られている。政権交代のできる与党と健全な野党との緊張感のある政権運営が、わが国に実現される日はそう遠くはない。



■阪神淡路大震災

 一瞬にして多くの尊い命を奪い、わが街、神戸を崩壊させた阪神淡路大震災。都市型災害としては世界最大規模の被害をもたらした。犠牲となられた方々にあらためて心よりの哀悼の意を表したい。
 1995年1月17日午前5時46分、神戸市中央区山本通りの自宅で床についていた私は、突然突き上げられるような激しいゆれと轟音に飛び起きた。家具は倒れ、外壁は崩れ、床は大きく波打った。その後訪れた静寂の中で見た凄惨な光景に、昨日までのあの華やかな神戸の街の面影はどこにもなかった。
 その瞬間、政治家として自分に何ができるのか、自問自答をするとともに、身支度もそこそこに、急いで家を飛び出した。それからの日々は被災地をくまなく訪ね、被害状況を確かめ、被災された方々の声を聞き、関係省庁との連絡をとる毎日であった。
 翌日には当時の村山首相が現地入りし、議員団も視察に訪れたが、内閣の対応は初動から鈍いものがあり、被災地の切実な要望を満たすものとは言えなかった。深刻な被災地の状況を目の当たりにして、今なお、この国の危機管理能力に疑問を感じざるを得ない。大きな自然災害の前に、政治や行政の限界を感じると同時に、責任の重大さを痛感した。
 幸いにも生き残った私達の課題は、単に神戸という街を旧に復するに終わるのではなく、国際化と情報化の近代都市への再生を達成させる事である。喉もと過ぎれば熱さを忘れると言うが、私自身も被災者である。私は、決してあの惨状を忘れることなく、日々決意を新たにしている。


 → プロフィール

 → 人間「石井一」




2001-2003 Hajime Ishii Office All rights reserved.