ATPとは社団法人全日本テレビ番組製作社連盟の事で、テレビ番組の公共性と社会的機能の多様化にかんがみ、その質的向上を図ることによって、我が国の放送文化の発展と国民の文化的生活の向上に寄与することを目的とする連盟です。制作会社の社会的機能を高め、制作スタッフ一人ひとりの情熱や気概に応えるために、創り手である制作会社のプロデューサーやディレクターが自ら審査委員となって優れた作品を選ぶ、日本で唯一の賞として1984年に「ATP賞」を創設されました。ドラマ部門、ドキュメンタリー部門、情報・バラエティ部門の3つのジャンルで作品を募集し、毎年100本近い応募作品の中から、グランプリ、最優秀賞、優秀賞などが選ばれます。その中で2006ATP賞ドキュメンタリー部門最優秀賞に『ダッカハイジャック事件』が選ばれました。石井一が4月にバングラディシュに行き当時の空軍司令官や関係者と再会し、撮影したドキュメンタリです。NHKのクルーの皆様受賞おめでとうございます。

―孤独な決断のとき―

クーデターも発生 難を逃れてコントロールタワー屋上で
交渉の成り行きを協議する

交渉が難航し、苦悩の色を深める 立ちづめでの犯人との交渉は134時間に及んだ

管制塔の中、ハイジャック犯と交信する

人質全員救出 それは政治家としての使命感からであった 帰国後の記者会見

出発直前、首相官邸ハイジャック対策本部で最後の協議田村運輸大臣、福田法務大臣と

「頼みます」空港で石井団長を見送る園田官房長官

激励の握手を交わす福田総理

インドのボンベイ上空でハイジャックされダッカ空港に強制着陸させられた日航機

 
1977年9月28日から翌10月5日にかけての約1週間余り、バングラデシュのダッカ空港を中心に起きた日航機ハイジャック事件で、当時運輸政務次官だった私は否応なくその渦のなかに飛び込まざるを得なくなった。
 私は政府派遣団の団長を命じられて、事件の舞台となったバングラデシュに飛び、犯人たちとも折衝、第三国との交渉に当たったのだが、この体験は政治家としてというよりは、人間として、ひとりの男としてとても貴重なものであったと思う。20年あまりの歳月をへた、いま、思い起こしても肌身に冷や汗を感じる、そしてとても孤独で厳しい決断の連続であった。
 犯人である日本赤軍の連中は、私たち日本政府をまったく相手にせずに、第三国であるバングラデシュ政府を仲介役にして交渉を進めるという周到な計画を持っていたのである。加えてマムード空軍司令官に代表されるバングラデシュ政府は、当時、パキスタンから独立したばかりの新興国で、自国の主権を主張し、国家の体面にかけても流血の自体を避け、わが国からの影響力を最小限にとどめようとしていたからである。このため、私たち政府派遣団の最初の難問は、犯人たちとも対決というよりも、いかに両国の国益を合致させるかということに費やされた。日本政府の基本方針は「ダッカでの人質全員解放」で、その手順を練り上げてもっていったのだが、私たちが現地ダッカに着いたとき、マ司令官はすでに「部分釈放」の線で犯人たちと交渉を進めていた。部分釈放で犯人たちの要求に応じ、一刻も早く“疫病神”を追い払うのがベストだと考えていたようだ。それも彼の立場からすると当然かもしれないが・・・。しかし、部分釈放を認めてしまえば、機内に残る82人の人質をどう救えばよいのか。日本政府の訓令と国民の期待にどう応えればよいのか。「ノー」といえば人質の処刑が次々に執行されるはずだ。米国人ガブリエル氏の最後の言葉がマイクを通じて伝わってきた。緊迫した状況のなかで、私の苦しみは、残る82人の人質とわが身をなんとか交換できないかということであった。マ司令官にも交渉を頼み、また実行犯のリーダー奥平純三にも「オレが入る。人質を出してやってくれ」と直談判もした。同時に「自分が入れば、まず殺されるだろう」という不安を正直言って振り払うことができなかった。人質との交換は犯人側の「ノー」で実現しなかったが、まさに死線を彷徨うギリギリの場面であった。

石井一著「ダッカ・ハイジャック事件」より

1977年9月28日、パリ発東京行き日航機が日本赤軍に乗っ取られ、バングラデシュのダッカ空港に強制着陸。当時運輸政務次官だった石井一は福田総理の命を受け、人質解放、事件解決のため政府派遣団団長として現地に飛んだ。バングラディシュ当局との交渉の過程で苦汁の決断を迫られた。それは孤独で厳しい決断をしなければならなかった。ハイジャック犯の要求とかけがえのない人質の生命との狭間で・・・。

ダッカ・ハイジャック事件